平野政吉と藤田嗣治の出会い … 美術館建設の夢

 

 明治28年(1895年)、秋田市の江戸時代 から続く米穀商の家に生まれた平野政吉は、若い頃、我が国航空界の黎明期に飛行機の操縦に没頭、操縦中に東京湾に墜落し、九死に一生を得るなど、破天荒な人物であったことが知られているが、経済的に恵まれ、十代の頃から美術品を収集していた。

 藤田嗣治とは、昭和9年(1934年)、上野の二科展の会場で初めて出会い、自信満々に話す藤田の人柄と作品に平野政吉は強い衝撃を受けた。日本洋画壇の巨匠、藤島武二との挨拶を終えた藤田嗣治に平野政吉が「私も藤島さんの絵が好きです」と話しかけた時、藤田は言った。「ああいう人の絵を買っておくと、やがてみんなただになりますよ。ぼくの絵は全部国宝ですからね」

 最初、平野政吉は藤田をおかしなこと言う人だと思ったという。しかし、展示されていた藤田の「カーニバルの後」(1932年)を見て、その細密な線描、画面全体を包み込む倦怠感、足元に散乱する紙テープの描写の緻密さなどに強く心が動かされ、衝撃を受けた。その出会いから二人の交友が始まり、平野政吉は、美術館を建設したい、そのために藤田の作品を収集したいと強く思うようになったと言う。

 平野政吉は、若い頃から培ってきた審美眼で、藤田嗣治の作品に着目し、才能を見抜き、その後、美術館建設の夢を実現するため、藤田嗣治作品を人生を懸け、収集していくこととなる。


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