平野政吉と藤田嗣治の美術館建設構想 … 大壁画「秋田の行事」の制作


 
 平野政吉は、1936年(昭和11年)に、藤田嗣治の初期の傑作「眠れる女」を購入したのを始め、「北平の力士」、「五人女」、「カーニバルの後」など大作12点を購入した。平野政吉は藤田の作品を集めた美術館の建設の夢を抱き、「あなたの絵を集めた美術館を建てたい」と藤田に打ち明けた。藤田はこの話を受けて、美術館の壁を飾る壁画の制作を表明した。この時期、藤田は各地で壁画制作に取り組んでいたが、秋田で描くことになった壁画はその集大成と言えるものになった。藤田は秋田の中に日本を見い出し、平野との約束で世界一の壁画を描くことを構想した。

 翌年、1937年(昭和12年)2月に、秋田を題材にした壁画が、平野政吉の米蔵でいよいよ描かれることになった。藤田は僅か15日間、合計174時間で、縦3.65メートル、横20.5メートルの大作を一気に描き上げた。興が乗った時は徹夜もしたと言う。完成後、藤田は「この大きさと時間の記録は、世界が終わるまで破られまい」と興奮して話していたとのことだ。藤田は用意していた絵具から紫の絵具1個と白のビン2個を残しただけだったと言う。緻密に計算された天才ぶりに平野政吉は改めて感心した。藤田はこの壁画を「秋田の全貌」が直ちに解るように、洩らさず描くという意図で描いたと言う。こうして完成した「秋田の行事」は、昭和12年当時の秋田の人々の暮らし、竿灯、梵天などの祭りが描かれ、秋田の産業、歴史までも描かれている。線と色彩が融合し、生命力、躍動、情熱が画面に溢れている傑作である。

 「秋田の行事」は、平野政吉と藤田嗣治が構想した美術館の壁を飾る壁画として描かれたものだ。その後、平野政吉は苦難の末、30年の歳月を経て、1967年(昭和42年)5月5日に念願の美術館を完成させた。その美術館は日本宮殿を思わせる双曲線の屋根、正倉院を模した高床式の造りなどに藤田嗣治と平野政吉の理念、構想が生かされている。また、藤田の助言を受け、美術館の採光形式は、藤田が最後に手掛けたフランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」と同じように自然光を採り入れたものとなっている(注)。また、「秋田の行事」は、藤田の指示により、床から6尺(約1.8メートル)の位置に据えられ、両端が少しずつ迫り出して据えれて展示されている。

 大壁画「秋田の行事」と「秋田の行事」を展示することを主目的に建てられた平野政吉美術館は、平野政吉と藤田嗣治の交友の歴史を示す証でもある。このままの形で後世の伝えていく義務が私たちにある。この貴重な文化財の価値を壊すようなことは許されないだろう。


(注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治の助言通り、丸窓からの自然光の採光形式にすべきと考えます。


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