レオナール・フジタ最後の作品「平和の聖母礼拝堂」と平野政吉美術館

 レオナール・フジタ藤田嗣治)は自らの画業の集大成として、フランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」を制作した。フジタはこの「平和の聖母礼拝堂」の設計、壁画、ステンドグラス、彫刻などの制作を自ら手掛けた。

 この「平和の聖母礼拝堂」と秋田の「平野政吉美術館」はフジタの助言によって結び付けられている。

 「美術館の屋根は、ランス礼拝堂のような採光の形式にしてくれ」(1983年《昭和58年》1月12日、朝日新聞聞き書き わがレオナルド藤田」) 

 1966年(昭和41年)5月、平野政吉が念願の美術館建設の報告を兼ね、パリ郊外のフジタを訪ねた際、フジタは平野政吉にそう語っている。

 美術館の採光形式を、自らの人生最後に制作した「平和の聖母礼拝堂」と同じ、採光の形式にするよう平野政吉に託したのである。

 平野政吉は「私は、それを忠実に守った。平野美術館の特徴ある丸窓は、このためだ」(1983年《昭和58年》1月12日、朝日新聞聞き書き わがレオナルド藤田」)と証言している。

 1968年(昭和43年)1月、フジタは、二人にとって念願であった美術館を観ることなく生涯を閉じ、今は生前の希望により、自ら制作した「平和の聖母礼拝堂」に永眠している。

 平野政吉美術館と美術館の採光形式には、レオナール・フジタ尊い思いが込められており、その思いはレオナール・フジタの最後の作品「平和の聖母礼拝堂」に通じている。

 フジタの思い、それを守った平野政吉の思いが込められている平野政吉美術館(現秋田県立美術館)は世界に誇れる秋田の貴重な文化遺産であり、末永く後世に伝えていくべきである。




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